以前、挨拶状を出すために、切手が大量に必要になったときのことです。
道に迷いながら、ようやく、小さな郵便局に、たどり着きました。
すでに季節は初夏。転勤の挨拶状というより、暑中見舞いの時期でした。
列に並ぶ間、カウンターの上の暑中見舞いはがきや記念切手の案内に気を取られ、
これから起こることについては、完全に、無防備でした。
「次の方どうぞ!」
自分の順番がきました。
窓口のお姉さんの声は、思いがけず、僕の記憶のスイッチを入れてしまいました。
どこかで聞き覚えのある、澄んだ鈴の音のような声。
ふと、窓口のお姉さんと目が合いました。
その瞬間、僕は、約30年前に、タイムスリップしていました。
僕は、彼女とそっくりなお姉さんによく遊んでもらいました。
彼女の家の近くで、彼女と一緒に、アリをつかまえているところ。
彼女は地面にしゃがみこんで、僕のようすを見守っています。
僕がこれまでに出会ったなかで、一番優しくて、一番きれいな人でした。
懐かしさのあまり、顔がほころぶのと同時に、心臓がばくばく来ています。
彼女は、僕の反応を待っている。
僕は、それを分かっているんだろうか?
僕は今、アリを捕まえようとしているのではなく、切手を買おうとしている。
そして、そのとき、とっさに出た言葉は・・・
「なにか、変わった記念切手、ありますか?」
僕は、この受け答えができた自分に、驚いた。
僕は、もとの現実に、半分だけ戻っていました。
正確には、彼女の姿に目がくらみ、軽くトランス状態に入っていたのでした。
初夏の、暑さのせいでしょうか・・・
目の前の彼女は、微笑んでいます。
胸元には「斉藤香織(仮名)」という名札をつけています。
「おいくらのを、お探しですか?」
「50円のと、80円のをお願いします。」
おかしい、いまは50円切手を買いに来たはずなのに。
少し、気が大きくなっていました。
もう、僕もずいぶん大人になったので。
しかし後に、この80円切手を、何度も買いに来るようになる。
僕は、彼女が腰をかがめて切手を探すところを、何となくながめていた。
僕が好きだった、近所のお姉ちゃんは、こんな人だったんだな。
僕の潜在意識のなかに刷り込まれた、理想の女性像でした。
「まず、こちらが50円で、3種類、80円のは、5種類あります。
それから、50円と80円のが一緒になった、キティーちゃんのセットもあります。
どれになさいますか?」
「この50円の動物のイラストのを、150枚分ください。
それと、キティーちゃんのを、2セット。
それから・・・・この80円切手の動物、可愛いですね。
このシートも2枚ください。」
「あ、この80円切手、私も大好きなんです」
彼女と、意見が合った。
ちょうど、郵便局への風当たりが強い時期でもあった。
僕はもともと、そんな偏見は、まったくない。
僕は再び、彼女が腰をかがめて、切手シートを取り出すところを、ながめていた。
推定、24歳、独身。
僕の、潜在意識のなかに刻み込まれた、絶世の美女。
「運命の人」
僕は本気で、そう思いました。
「この人を、落とそう。ってか、嫁にもらおう。」
しかし、この美女に対し、自分は、どうしても不釣合いに見える。
「彼女は、本当は、そんなにきれいな人ではないんじゃないか?」
そう念じながら、盗むように、彼女の横顔をながめてみました。
しかし、やっぱり、きれいな人だった。
彼女と、話がしたい。
どうしたら、いいんだろう?
彼女とはいつも、カウンターに向かってしか、話せない。
勤務の終わる頃に、待ち伏せする?
まさか。
普通の社会人に、そこまでする時間の余裕なんてない。
(つづく)