風水の物理

性善説・性悪説 その2

「性悪説」という、いかにも聞こえの悪い思想があります。
今から2200年ほど前に、中国の荀子(じゅんし)という人が、
孟子による「性善説」への反論として唱えた説です。
「性善説」の考え方は、
人の価値を「先天的なもの」とみなすのに都合がよく、
世襲制を正当化するための方便としても使われていました。
それに対し荀子は、
「人間は生まれながらにして、善悪は決まらない」
という自然科学的な見地から、
警鐘を鳴らす意味で「悪」の文字を使ったわけです。
荀子のいう「善」と「悪」は、
「善=秩序」と「悪=混沌」を意味しています。
「性悪説」というのは、「性善説」を進化させたかたちです。
しかし、ネーミングが、安易でした。
そのため、性善説の「亜流」のように扱われてしまいます。
本来は、「新型プリウス」みたいなものなのに。
僕はこれを、ネーミングのミスと考えます。
一方、ライバルがみずから
「亜流」を名乗ってしまったおかげで、
「本流」となった「性善説」の方は、
圧倒的な仕事量を誇る、朱子(しゅし)に引き継がれ、
完成度を上げていきます。
難しくなったので、相談してみます。
「人は生まれつき、善なのかな、悪なのかな」
「僕は、どちらでもなくて、0(ゼロ)なんだとおもうよ」
「逃げたわね?」
「そうじゃなくて、人は学習によって、善になっていくんだ」
「それじゃ、その学習内容が『善』だっていうことを、誰が決めるの」
「それは、経験からさ」
「でも、その経験が、善か悪か、基準はどこにあるの?」
「それは、その種を保存しようとする本能からだと思う。」
「結果的に、保存出来なければ悪、保存できれば善というわけね」
「そう。それが、長い歴史の間に、体系化したんだ」
「悲しい経験の原因は『悪』、
うれしい経験につながるのは『善』ということね。
でも、そう判断できる本能って、『善』なんじゃない?」
「来たね。性善説!」
「ほら、やっぱり性善説でしょ?」
「確かにそうだけど、それは孟子の時代には、なかった考え方なんだ」
「追い詰められてるわね?」
「この辺でやめとこうか?」
「また今度にする?」
「4月になってからね」
「もう、4月よ」
「エイプリルフールなんだね」
「それが何か?」
「いや。もっと勉強して『善』の心が分かるようにがんばるよ」
「それって『禅』じゃない?」
「おやすみぃ」